今ドキの本能

 人はやはり自然に支配されるように設計されている。そう思う。自然界に対して体温調節に適した体毛も持たず、獲物を仕留める牙も持たず、他の動物から逃げる俊敏さも持っていない。だからこそ人は命をつなぐために、本能的な知を暴走させて生を全うした。今でさえ、ある課題解決の手法に「クリエイティブ」という言葉が使われているが、その次元を超えた「生存競争」を先輩たちは克服してきた。

 現代。僕らの脳は、本能は、あらゆる脅威から守られながら、人間社会においておおむねの現実を受け入れるように完成しつつあるようだ。チクチクつきまとう常識、文化、貨幣感覚……もっとあるだろう。僕らはこれらひとつひとつが凹凸になった……ピッチもエッジも整えられた金型の上に産まれ落ち、歯車のようなものになり、人間社会の大きなシステムに組み込まれていく。人間的な暮らしをやるためにあらかじめ用意された駆動部分を噛み合う。
 生きるための競争というよりは、ただ生きて、死んでいく消耗品として、僕らはきっと自然界じゃない誰かに支配されている。

 しかし本能は、自我は、脳は、身体は、いつでも生きるために暴走する瞬間を待ちかまえている。生きる実感、必然性を社会的システムを一線超えた場所に感じるべきだと気付いている。本能的な生活を渇望し、暴走する場所を探している。お金をベースにモノが溢れ、システム化され、全てが自動的に動くこの世界で、暴走が起こるなんて?

 暴走、きっとそれは、貨幣経済の殻や、社会規律から自分を分離させていくことだと思う。

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 キャンプをした。"キャンプ”と名がついても屋内宿泊がせいぜいで、恥ずかしながら、野外での寝泊まりは初めての経験だった。僕らは気温10度を下回る冷気と星空だけの静かな世界で、定番の腸詰めを焼き、炎炎と揺らぐ裸の生き物に薪をくべ続けた。特に人と自然がやり取りをする中で儚いのは、日付が変わって夜が明けるまでの睡眠の間だ。生地2枚ばかりの簡易テントに身を置き、自然の中に寝息を吐く。地面から体温を取られるばかりか夜露も半端な量ではない。動物から襲われる恐れだってある。だからこそ、寝て起きる間の世界の変化に耐えられるよう、僕らはキャンプ道具で命をつなぐのであった。隣に同じく横たわっていたのは、日常では味わえない、確かな本能的恐怖だった。