オフラインの時間

 忘れられない、美しい体験をすることがある。
 とおい感動が、何の障害もなく脳裏に透けて入り、胸のあたりに心地よい涼風が吹き抜ける。張りつめた琴線に共振するココロは一瞬、カラダへの命令を忘れ、統制を無くした口からは言葉にならない言葉が漏れ出す。

 それが、「オフラインのじかん」だったことに気づいたのはここ数日だった。その場面に偶然居合わせた、眼前の感動と、ネットとの関係がプッツリ切れた、誰も意識しない丸裸の自分。煌びやかなるふたりきりの時間。夜の電車に揺られながら読んだ「マゼラン雲」の記事、圏外の山奥で見た星空、肉眼めいっぱいに広がる久住の高原、山岳渓流のせせらぎ、恋人との時間。どれもはっきり脳が「美しい体験」をしている。

 私事と仕事がくっついた生活には、常にオンラインであることが必須課題だった。とくに「仕事」や「情報」というものは、時間や合理性、タイミングをエサにくねくねと走り続けるせっかちな生き物だ。たくさんの仕事を飼い慣らすには、いつどんな時でも的確にオンラインしていないと息切れを起こしてしまう、実にデリケートな事情がある。それゆえにスマートに、仕事と私事の境界線がなめらかに慣らされ、創造性が生まれていく。僕らがネットと契約を交わしたのはそういった理由だけあって、大切なコトはオンラインすればいい、というだけの単純な話ではなさそうだ。

 僕ら世代の話だ。めまぐるしい情報社会から、生きるための情報や感動を選びとる時代に生まれ落ちた僕らは、美しい体験が、人やネットを媒介として巡ってくるものだと無意識に思っているんじゃないかと思う。人が感じた感動の文句を、あたかも自分の言葉のように数珠つなぎして描いていく僕ら世代のSNS。お定まりの文句に溢れかえっていく感動の定型句。僕は自身の心で、巡り逢うべき人を、巡り逢うべき感動を、経験を、アイデンティティにしていきたいんだ。

 こんなことも「オフラインのじかん」から教わった人間としてのひとつの態度。オンラインの恩恵に傾倒しているからこそ、その対極の態度をも持ち合わせた美しい人間になりたい。