「シェア」ではない、反骨心丸出しの「ユナイト」について

 僕らはたまたま日本という船に乗り合わせた。そこには既に先輩が作りあげてきた制度と文化が横たわっていて、先輩はいいように制度・文化の斧をふるう。これを避けながら、あるいはぶち当たりながら僕ら若者は人生を下積んでいく。「カウンター・カルチャー」という風潮は、若者がこの構図に異をとなえ、彼らの合理的で文化的で低予算で快適な生活のために起こすムーブメントのことだ。僕の胸のうちにカウンターカルチャーの芽がある。

 僕らの文化的生活をはぐくむ環境が、先輩たちによって育っていない。
 というのは、怠慢な家主(地主)と不動産の出来レースが生む、搾取の構図のコトである。

 僕らの生活のクオリティは、高い家賃によって搾取されている。怠慢な家主が怠慢な不動産業者と裏で手をひき、市場価格もバラバラな業界であるのをいいことに、目が飛び出るような値で部屋が取引されている。家主の多くは社会福祉費の主な受益人である高齢者だ。その上に彼らのオムツ代に僕らの尊い生活をすり減らしているという現実がここにはある。地域の決め事も土地も国の金も「一部の」高齢者がイニシアチブを取っている現実がここにはある。

 ハコの使い方もスマートではない彼らは、最終的に地権はそのまま、手入れを放棄した悲しいハコをもどんどん生産していく。彼らに物件を持たせ、今の不動産に管理を任せるのは、若者の文化的生活を育てる当事者としてふさわしくない。

 僕は物件の資産運用、または不動産管理の当事者を、僕ら若者に引き渡すような実験的運用を試したい。首輪のついた悲しいハコたちを救い、僕らの生活に還元していく運用だ。例えばシェアハウスという風潮があるが、夢を追う若者がユナイトし、居住運用権の獲得を目指す。「仕事のシェア」や「楽しい生活のシェア」などという生臭い関係ではない。反骨心丸出しの文化的集団の住処としてのシェアである。

 「地縁的なつながりの希薄化」、「シェアで新しい人の関係」などと耳にタコができるほど聞いたワードも解決だ。第三のコミュニティの源泉は、この「自分たちの生活を取り戻す」逆境心にヒントがある。