地域活性に食われるデザイン、あるいは地域活性がお尻に与えたストレスついて

 

 「計画を記号に示す。」"Design"という概念はラテンからやってきた。デザインの意味や趣意については、大学時代からたまに付きあいがある。そもそも僕は社会学専攻の学生だったし、グラフィックの職人机に「座ってみろ」と言われると、できても黙ってメシを食うくらいが関の山なのだけど。
 偶然というか必然というか、どこか遠くから「プロデュース」という名のそばに空から弧をえがいて降ってきたような人間だからして、空中で行われていた"Design"のパーティにしれっとに紛れ込んで「Cheers!!」といってもいい頃じゃないのか。

 先日「デザインと未来視」という議論を拝聴。デザインは未来を提示する羅針盤であり、お国がつくる未来予想図よりもよほど高度な翻訳可能性があるということ。問題解決、価値創造の手のひらから飛びたつ蝶々。それはときに美しい。 ーここでデザインについて違和感の経験がある。例えばこんな。

 ある町の古びたバスセンターでは、待合スペースの椅子も同様に経年劣化で疲れた格好をしていた。樹脂で形成された丸い形の椅子だ。今後の策を考えた関係者は意を決して椅子をリニューアル。「ここは鉄の町だから」彼らは全て鉄で作られた長椅子に変えたのだった。端整な鉄の長椅子で、立派にも協賛企業の名前が彫ってある。「この町のアピールになるね」人々はスペースの変化をよろこんだ。
 しかし、この椅子が冷たくて硬い。とても座りここちが悪くて体に悪い。まるでお尻と背中が噛みつかれたみたいな不快感がある。以前の椅子のほうが気持ち良かった。それはそうだ。これまでの椅子はプロのプロダクトデザイナーが、短/長時間の快適な待ち時間のために腐心しながら設計した椅子なのだから。工業プロダクトの功績はすばらしい。フォルクスワーゲンのビートルをはじめ、机に椅子、置き時計の針ひとつだって。工業プロダクトは"人びとの快適な暮らしのために"デザインされてきた歴史がある。

 何が言いたいのかというと、バスセンターにおいて「地域活性のアピール」を前面に出した結果、バスを待つ人びとのお尻と背中にストレスがかかったということだ。デザインが地域活性に食われたなと思った。バスセンターのここ何年の未来はストレスフルなスペースになる。小さいようで大きい、お尻を守るための水掛け論。どうせ地域活性が正義なんでしょ?以前の疲れた椅子はどこへ行ったのだろう?

 いまデザインは受注がないとその職能を発揮できない、この「デザインが食われた」現象は、デザインが経済的にも意識的にも高い立場にあるからだったのだろうか。また加えて、この意思決定に大きく関わるプロデューサーという職能が噛んでいたならば…展開は大きく変わっていたはずだ。思慮が深まる。

 もう一度。「計画を記号に示す。」"Design"という概念はラテンからやってきた。今ではそれを特にこの世に体現できるのは、意識的に勉学を積んだデザイナーという職能だ。だけども、「Design」という言葉がもしもこの世になかったならば。

 そもそも、ハチの巣がハニカム構造だとか、僧がまとう袈裟のカタチだとか、船のカタチだとか、「Design」という便利な言葉がなじむ前からそれはそこにはあって、かれらはかれらなりに、"計画を記号に示し"てきた。それは効率よく幼虫をそだて蜜をつくるため、人びとの暮らしを神道の下にまとめるため、そして、渡らなければならない川がそこにあったからだ。決して先人(昆虫?)たちはデザインというまな板の上でモノコトを調理してきたわけじゃない。

 てんでんばらばらおのおのめいめい、それぞれのまな板の上で"計画を記号に示す"のだ。 ではいわゆる「地域活性」のまな板ではどう記号があるべきか?誰がなんと言おうと、座るために設計されたプロダクトを鉄に変えようなんて、僕はしない。はっきり言っていい迷惑だ。小さなことから未来への計画を記号に示していこう。そしてこれを「Design」として、問題解決や価値創造を可視化していこう。