自然と人間に共通する新たな理について

 "魚は何故こうもはやく水中を泳げるのか" これを研究したある学者は事実を知り、おどろいた。彼らがいかに高速で運動しているかでなく、彼らは水の性質をうまくつかってこれを全体の推進力にしていた、というのだ。
 "鷹はなぜ翼をはばたかせずに空を滑り続けるのか" 理由は、彼らは尾羽を巧みにつかって気流を舵とっているからだ。魚も鷹も、外側の環境 ーつまりは「自然のことわり」を自分の体の一部とでもいうように行為しているということだ。
 僕のご先祖さまも、魚や鷹と同じように、自然との絶妙な「共生」をさぐりながら、人類を橋渡ししてくれた。実際に僕らのDNAには、本能としてのデータが赤く透けてかよっているはずだ。しかし悲しいかな、僕はそれを知らないまま、「お金と人間との共生」の名目の下で生きてきた。

 ここから、なぜか僕の話だ。
 僕は大学より地域社会学を専攻し、おカネ主義における"町のこれから"を探っていきたいと考えてきた。理由は"おカネが世の中を決める"構造に虫酸がはしるからであり、同時に「昔は良かった」「今じゃさびれた」という人間供に虫酸がはしるからだった。活性化すべき町は正当に活性化しなければ、次世代の社会へ向けて、生きるテンションやモチベーションの橋渡しができないと考えていたのだった。これを「地域活性」といってきた。

 でも近ごろ、僕がまなぶのは決して「地域活性」ではないな。と思えてきた。では何か。それは、僕がひとりの人間として改めて、自然と人間の"新しいことわり"をまなび、さぐり、表現することだと考えた。難しいけれど。

 魚や鷹の例と似て非なるが、タンポポはタネを遠くへ飛ばす方法として「綿」という手段をえらんだ。おなじくスミレはタネを弾けさせることで、植物としての生存競争をしのんでいる。これらを、人間社会の言葉を使うと「戦略」だと教えてもらった。つまり、人間社会にも、自然の世界にも、この世全ての万物において「戦略」は行われている、ということなのだ。魚や鷹のように、「自然は自然ではなく、体の一部だ」ということを人間社会ではどういう「言葉と行為」であらわせようか。

 最後に、僕らに必要なのは【自然と人間に共通する新たな理】を世に編集することだ。偏りすぎている資本主義でがんじがらめになっている常を、いつか、【自然と人間に共通する新たな理】に解釈しなおして行きたい。そして、過去の僕の夢でもある「地域活性」を「地域活性」というキーワードではなく、「街と人と自然の幸せな関係」という言葉で、導いていきたい。そう静かに思う。